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提・蘭若(私寺・庵)が壊され、僧尼が26万人以上還俗させられた。敦煙は吐蕃の支配下にあったために、その難にあうことがなかった。多くの僧侶が法難を避けて敦煌にきたといわれる。
1036年、河西一帯に建国したタングート系の西夏は北宋を減ぼし、敦煌もその掌中に収めた。この西夏も仏教を信奉し、莫高窟も弓1き続き造営されていく。近年発見された第17窟の蔵経洞(経典か纏めて仕舞ってあったが、外国の探検隊によって大半が国外に持ち出されてしまった。)が、かつてはこの西夏の侵入に備えて封じられたと推測されていたが、今日、西夏文字の標記がある事から疑問視されている。
武威の天梯山、張掖の馬蹄寺、酒泉の文殊山、玉門の昌馬、安西の楡林窟、敦煌の莫高窟、西千仏洞等に石窟を開き多くの石窟を改修した。
1227年に成吉思汗の率いるモンゴル軍は沙州を破り、1271年にフビライが国号を元と改めた。その後しばらくしてマルコポーロが訪れ、東方見聞録を著している。その中で、「多くの寺院・僧院があって、そこにはありとあらゆる偶像が所狭しと安置されており、人々は多量の犠牲を捧げてこれを崇拝している。」とある。

 

5. 河西回廊の観光資源と関連施設等

(1)観光地
?敦煌
・敦煌市
昔、沙州と呼ばれた敦煌の歴史は紀元前111年に漢の武帝がこの地の匈奴を破り、河西四郡のひとつを敦煌郡に置き、漢民族を移住させて西域支配の拠点にしてからである。
以来、シルクロードの要衝として栄華を誇り、唐代に最も栄え、絢燗たる敦煌文化を創り出した。その後、吐蕃、ウイグル、西夏、元、トルファン等の支配下に入り、幾度かの歴史の変遷を経ている。現在の敦煌は人口15万人(その内農業人口は9万人)、漢民族が99%をしめている。蒙古族等の10少数民族がいる。
総面積は3.12万km2、そのうちオアシス面積は1,400km2であり、年間降雨量は40mmで、蒸発量の2,490mmの差は祁連山脈から流れる雪解け水によっている。
街並みは清代からのものである。
・莫高窟
大同の雲南、洛陽の龍門とともに中国三大石窟の一つとされている。千仏洞とも呼ばれ、鳴沙山の東麓に位置し、大泉河に沿った岩泉河岸壁に長さ1,600mにわたり、492窟の窟竈が開かれている。莫高窟が開かれたのは、332窟から出土した「李懐譲重修莫高窟仏竈碑」によると前涼の時代、紀元366年(前秦の建元2年で、また、漢民族の王朝東晋の時代)と記されている。その後、北涼、北魏、西魏、北周、晴、唐、五代、宋、西夏、元と10代1,000年にわたり、掘り続けられた。
敦煌が漢民族の支配下にあった前涼の時代に開かれたことから漢民族の影響を強く受けた仏教文化が築かれた。合計4万5000m2以上にわたる壁画と、彩色塑像2,415体、飛天4,000余件と多くの経典を有する。完全な形で保存されている仏教芸術の宝庫である。16世紀にトルファンの支配下に入った敦煌はその姿を現すことなく、今世紀に入って、蔵経洞が発見されるまで閉じこめられていたためにその姿が劣化、破壊、お

 

 

 

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